住職より~4月の写経会を終えて

2024年4月8日
称号十念

4月の写経会を無事厳修いたしました。
正光寺の写経会は書道教室ではないので、字をうまく書くことを目的としていません。日々の生活を穏やかに豊かにするために必要なものごとの本質を再確認するための内省を目的としており、さらには念仏を称えることをもって最期に敬愛すべき先人たちと同じ極楽浄土へお迎え頂くことを目的としています。
前回は、「雑毒之善」の大切さを皆で再確認しました。心から大切だと思ったことを実行できているか。その行動は本当に嘘偽りのない思いで実行しているか。不完全な人間、凡夫である私たちが、自らの善に従って一生懸命生きていくことの難しさをふまえ、心と行動の一致を目指して、1か月過ごすことを目標としました。

さて。

今月4月は「極楽浄土」が西の遥か彼方に必ずあるということの大切さを再確認しました。
極楽浄土は、私たちが死んだら念仏を称えていることを条件として往くことができるところで、西の遥か彼方に“必ず”あります。

しかし、だからといって西に向かってひたすら歩いたところで、地球は丸いですから最後は元居た場所に戻ってきてしまいます。

では、ひたすら西に歩いても行くことができないが、それでも西の彼方にあるとされる極楽浄土はどこにあるのでしょうか。

私たちは、視覚によって世界を認識していますが、それが正しい認識であるかとうことは保障されません。なぜならば認識していないものを見ることができないからです。
内省活動を通じて、物事を正しく認識することを続けていれば、やがて必ず極楽浄土が西の彼方にあるのを観る事ができるようになります。

正しく極楽浄土があるのを観ることができるようになるとどうなるか。それは山登りをするのとほぼ同じ感覚になります。

この山道を一生懸命歩いて行けば、きっと素敵な風景が開ける。そのために今は大変だけと一生懸命歩みを進めていきます。素敵な場所、素敵な風景があると確信しているからこそ頑張れるのです。

同様に、最期は極楽浄土に往くことできると確信できているからこそ、日々を一生懸命生きていくことができるのです。
極楽浄土があると観ぜられるように、物事の本質に目を凝らして今月も一生懸命生きていきましょう。

今月の写経会では、改めて、不完全(凡夫)である私たちが「極楽浄土」の有難さを再確認するとともに、参加された方々が次の写経会まで穏やかな生活ができるようにご祈念しながら、共にお念仏をお称えしつつ写経会を無事にお勤めさせていただきました。
合掌
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住職より~4月の写経会を終えて

2024年4月8日
称号十念

2月の写経会を無事厳修いたしました。

正光寺の写経会は書道会ではないので、字をうまく書くことを目的としていません。日々の生活を穏やかに豊かにするために必要なものごとの本質を再確認するための内省を目的としており、さらには念仏を称えることをもって最期に敬愛すべき先人たちと同じ極楽浄土へお迎え頂くことを目的としています。

前回は、「一心不乱」の大切さを皆で再確認しました。心を乱すことなく平常心でいることはとても難しいことです。それでも、日ごろから深呼吸をするなどして心を落ち着けるようにする努力は、私たちの日々の生活を豊かに穏やかにする助けとなります。

さて2月は、「廃悪修善」の大切さを再確認しました。善いことをして悪いことをしないようにするという意味で、文字で書いたり言葉にしたりするだけなら簡単ですが、実践し続けることがとても難しいことのひとつです。
不完全(凡夫)である私たちが、善いことをしようとか、悪いことをしないようにしようとするときは、「なるべく頑張る!」という姿勢と「どうせ不完全だから頑張ったってしょうがない」というような開き直ることのない姿勢が大切です。

では、善いことをするために「なるべく頑張る!」ということはどういうことでしょうか。それは「自分が正しいと思う善を 人に押し付けることなく 人から押し付けられることなく ただひたすら考え続け 行い続けること」です。

なぜならば、「自分が善いと考えていることと、他人が善いと思っていることは、必ずしも同じではない」からなのです。

私は過去に、地域の掃除のボランティアに参加したことがあります。私はこの活動をとても善いことだと考えています。きっと、すべての日本人はこの活動を賛同してくれるのではないかと思っています。

しかし、ひとたび外国に飛びだしてみると、街を掃除するという活動が必ずしも賛同されるとは限りません。ある人は「貴方が勝手に掃除をすると私の仕事がなくなってしまうからやめてほしい」と言います。その人にとって街の掃除ボランティアは「悪」とまでは言わないまでも、決して賛同できるものではないのです。

私と「ある人」はどちらが正しいのでしょうか。どちらが正しいということはありません。不完全である人間の行動は、どこまでいっても完全であることはできないのです。
そのような私たちにできることは「自分が正しいと思う善を 人に押し付けることなく 人から押し付けられることなく ただひたすら考え、行い続けること」しかないのです。

今月の写経会では、改めて、不完全(凡夫)である私たちが「廃悪修善」をもって生きることについて再確認するとともに、参加された方々が次の写経会まで穏やかな生活ができるようにご祈念しながら、写経会を無事にお勤めさせていただきました。

合掌